説話 羅睺羅(らごら)の改心を読んで

釈尊には、出家前の悉達多(シッダールタ)王子だった頃に生まれた、羅睺羅(ラーフラ

いう名の子供がいました。

悉達多(シッダールタ)は、羅睺羅(ラーフラ)が生まれて間もなく出家したため、

離れ離れの生活となりましたが、やがて悟りを開き、ブッダ(目覚めた者)として、

多くの弟子たちを伴って故郷のカピラ城に戻ってきました。

久しぶりに我が子と再会した釈尊は、羅睺羅(ラーフラ)に最高の宝を与えたいと思い、

出家させ、弟子の舎利弗(しゃりほつ)に羅睺羅(ラーフラ)の指導育成を任せました。

羅睺羅(ラーフラ)は、遊びたい盛りの子供で、いたずらをしては他の仏弟子達を

困らせていましたが、周りの仏弟子達は釈尊の子供である羅睺羅(ラーフラ)を厳しく

叱ることはできなかったのです。

羅睺羅(ラーフラ)もまた、自分は釈尊の子供であるという慢心から、人の注意を

聞けなくなっていました。

指導係の舎利弗も何度も注意しますが、その時はしおらしく返事をしても、数日もするとまた

いたずらをして皆をこまらせます。

そうしたなか、ある日、遠方から年老いた修行者がやってきて、

「私は老い先短いので、せめて死ぬ前に釈尊にお会いしたい。」

と釈尊に会いに来た旨を羅睺羅(ラーフラ)に伝えました。

羅睺羅(ラーフラ)は、いたずら心から、釈尊がすぐ近くにいるにもかかわらず、

「釈尊は今朝早く、隣町に説法に行かれました。

ひと月ほどはここに戻りません。」

と嘘をついたのです。

そして、羅睺羅(ラーフラ)は、釈尊に会えずガックリとうなだれる修行者を見て楽しんだ

のです。

それを知った釈尊は羅睺羅に、たらいの水を入れて持ってこさせました。

釈尊はたらいの水で足を洗うと、

「その水を飲めるか」と羅睺羅に問いました。

羅睺羅は「いえ、この水は汚れているので飲めません」と答えました。

すると、釈尊はたらいを裏返しにさせ、地面に流れた水を見ながら、

「その水を元のようにたらいみ戻せるか」と問いました。

羅睺羅は「いえ、この水を戻すことはできません」と答えました。

さらに釈尊は空のたらいを指し「そのたらいに食べ物を盛って食べれるか」と問いました。

羅睺羅は「このたらいには汚れた水を入れていましたので、食べ物を入れることは

できません」と答えました。

そして釈尊はたらいを蹴飛ばし、転がるたらいについて

「今、そなたは、このたらいが壊れぬか心配したか」と問いました。

羅睺羅は「このたらいは安物ですから、それほど気にとめませんでした」と答えました。

釈尊は、

「そなたはこの水と同じである。せっかく清らかな道を求めているのに心は汚れている。

また流れた水をたらいに戻せぬのと同じように、一度ついた嘘を口に戻すことはできない。

また裏返したたらいには水をためられないように、汚れたたらいに食べ物を入れることが

できないように、妄語(嘘・偽りをいうこと)の者の心に、仏の教えは何一つ入らない

のだ。

また、そなたがこのたらいの価値を理解できないように、善行を怠り、人を騙し、

悩ませる者は、人々に愛されず智者に惜しまれず、悟りも開けず、一人さみしく三悪道を

さまよい、限りない苦を受けることになるのだ。羅睺羅よ、言動を慎みなさい」

と慈愛を込めて叱りました。

羅睺羅は過去の行いを反省し、その後は誰よりも厳しく自分を戒め、誰が見ていてようと

いまいと戒律を守って黙々と修行に打ち込み、のちに釈尊十大弟子の一人として

「密行第一」と称されるほどに立派に成長したのです。

羅睺羅は釈尊の子としての甘えや慢心により問題行為を起こしました。

しかし一方で、釈尊の子であるが故に周囲からの必要以上の期待や批判を受ける

こともあり、他の仏弟子には理解し難い苦労もありました。

そうしたなか、釈尊の厳しい訓戒を受けて改心し、修行に励み悟りを得た羅睺羅は

真面目な仏弟子の一人になりました。

このお話から学ぶこと

①釈尊は実の子である羅睺羅に、仏道をお教えたことです。

日蓮大聖人は崇峻天皇御書に

【蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。

此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし】とご教示されています。

②妄語の戒めです。

仏法では、法華経方便品に

「正直捨方便(正直に方便を捨てて)」

と説かれています。

正直な心で、真実を語って人に法を正しく伝えていかなければなりません。

これが妄語に戒めです。

③努力することの大切さです。

羅睺羅は改心したあと、人知れず仏道修行に精進した故に「密行第一」と称され、

修行を続ける羅睺羅の心からは自然と慢心は消えました。

地道な努力・精進を妨げるものが慢心です。

自分の力を過信して人を見下したり、努力を怠っていては真の幸福は得られません。

日蓮大聖人は持妙法華問答抄に

【仏にならんと思はゞ、慢のはたほこをたをし】と御教示されています。

日々弛まぬ精進をしましょう。

私はこの説話で学んだことは、

現代では子供の成長過程においていたずらは大切な行動でもあるという認識があり、

いたずらの度合いをこのお話で言っているわけではありませんが、

釈尊を求めて来た年老いた修行者に釈尊は不在と嘘をついて、がっかりしている姿を見て

楽しんだという、行き過ぎた行為は私達世間でもよく目にする光景です。

人の不幸を楽しむ人、人の失敗を楽しむ人、私も自分の咄嗟の判断を誤って人に寂しい思い

をさせたこともありその時の映像を思い浮かべました。

かといって生まれてこのかた、全く過ちを犯したことがない人はいるはずがありません。

釈尊の戒めも

たらいの水は羅睺羅の心 → 心は汚れている

流れた水はもどせない → 一度ついた嘘を口に戻すことはできない

裏返したたらい →妄語(嘘・偽りを言うこと)の心に仏の教えは何一つ入らない

汚れたたらいに食べ物を入れることはできない

たらいの価値を理解できない → 善行を怠る、人をだます、人を悩ませる者は

人に愛されず智者に惜しまれず、悟りも開けず、一人さみしく三悪道をさまよい、苦を

うける

仏法では自分の行った行為が業(ごう)となり、業には因果があるとときます。

自分にあてはめて考えますと、

裏返したたらいは自分の心で正しい仏法を求めない、心をふさぐ、

自分が満足する享楽だけを考えていたり、正しい仏法のお話を単なるものがたり感覚で

聞き入れることができないという事もあります。

たらいの価値が理解できないというのは、人の心を軽く考える、人の心を大切に思わない、

という事にも置き換えて考えてみました。

誰しも慢心はあります。

この説話は私にも言えることです。