業とは、行為・所作などの意で、人が身口意によってなす一切の行いの事をいいます。
倶舎論記には「造作を業と名く」とあり身業・語業(口業)・意業の三業のことを指しています。
小乗の説では身体の造作を身業、音声の造作を語業としています。
つまり、視聴覚的な身及び語を直接さしてこれを業としていますが大乗唯識の説では、さらに意識を重視して第六識(意識)と相応して起こる思の心所をさして業といいます。
即ち、身を動作する思を身業、語を動起する思を語業、意を作動する思を意業としています。
よって、身体で行うだけが業でなく、口で言い、意(心)で思うだけでも業となるのです。
瞬間瞬間に生命が身・口・意を働かせて作っている業は、行ったあとから消えるのではなく、すべて余韻、痕跡が当人の生命の中に残り、蓄積されていくのです。
また、業は未来にもたらされる果の原因となるので業因ともいいます。
さらに過去世の業を宿業といい、現世の業を現業といいます。
宿業とは「宿世の業因」という意味です。宿世とは「すくせ」とも読み、前世・過去世のことをいいます。
業因とは、善悪や迷い、苦しみ、悟り等様々な結果や報いを招く原因の事です。
つまり、現世に自らが実感する幸・不幸の根本原因は、自分自身が過去に積み重ねてきた様々な業によると捉えるのが宿業の本来の意味になるのです。
仏教では、業に善い因果と悪い因果があります。
善因善果といって、善い行いによって善い果報を得ること
悪因悪果といって、悪い行いによって悪い果報を受けること
これらの善因善果・悪因悪果には報いがあり、業因は種として命に蓄えられ、種が熟したしかるべき時に、その業報(業による報い)を受けると説かれます。
よって、私たちは常に過去世・現世に積んだ善悪の業報を受けると共に、今現在も、善と悪の業因を積みながら生きているということです。
定業・不定業
この三世の因縁果報の上に論じられる現在の宿業をその深重によって区別されているのが定業・不定業です。
業報を受ける時期が定まっていて改変することのできない業を定業(決定業)といいます。
これに対し、業報を受ける時期が定まっておらず修行により功徳や善業を積みこの業報が改められる業を不定業、又は順不定受業といいます。
三時業
定業には、報いを受ける時期が三種類あるとされ、これを三時業といいます。
- 順現業 順現受業ともいいます。
現世でつくった業の報いを現世のうちに受けることです。
- 順生業 順次生受業ともいう
現世でつくった業因によって来世に報いを受けることです。
- 順後業 順後次受業ともいう
現世で作った業因によって来々世以降に報いを受けることです
御書 『一代五時図』 (P494)
「此等(十悪・四重・五逆)は皆一業引一生なり。故に一度悪道に堕すれば還って二度悪道に堕せず。謗法は一業引多生なれば、一度三宝を破すれば度々悪道に堕するなり」
仏教で重罪とされる十悪・五逆罪を犯した者は「一業引一生(一業は一生を引く)」といいます。一つの業によって一生の報いを受けるという意味です。
十悪・五逆罪は重罪ではありますが、一生の報いで二生三生には及ばないということです。
これに対して謗法を犯した者は「一業引多生(いちごういんたしょう)《一業は多生を引く》と言って、何度も生まれ変わっても、そのたびに悪道に堕ち、苦しみの報いを受けなければならないとされます。
謗法の罪は、十悪・五逆罪よりもはるかに大きいためです。
御書 『開目抄』 (P571)
「順次生に必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰(げんばち)なし。一闡提人(いっせいだいにん)これなり」
とあるように、一闡提人言って仏法の道理を否定する者は正法を信じないため救われず、来世以降に地獄に堕ちる事が確実な為に現世において罰の現証が現れないこともあると示されています。
このように業には軽重があり、軽業の報いは「不定業(ふじょうごう)」となりますが、重業の報いは逃れることができず「定業」となるのです。
不定業は軽業の報いであり、信行の功徳によってそれを転じることも多くあります。
ですから、過去に犯した業の中には、現在の人生に結果として表れる宿業もあれば、現在には現れず、未来世に表れる宿業もあり、加えて私達の毎日の生活には、この定業・不定業の両面が常に存しているのです。
私達は過去遠々劫からの複雑に絡み合った様々な業報によって自分自身が形成されているのです。
私達は六道輪廻の中で廻っているということになります。
ではどうやって自分の業と向き合えばよいのでしょうか?
定業という定まっている業は諦めるしかないのでしょうか?
運命を嘆くだけなのでしょうか?
現在の不幸を嘆くだけなのでしょうか?
自分自身から逃げて、自分をごまかすことしかないのでしょうか?
定業という既に定まっている業の重業を転じることは容易なことではありません。
妙楽大師 『文句記』には
「若し其れ機感厚なれば定業も亦能く転ず」
と、仏道修行に励んで仏の大慈悲を蒙るならば、定業の報いすら転じることができると示されています。
御書『可延定業御書』 (P760)
「病に二あり。一には軽病、二には重病。重病すら善医に値ひて急に対治すれば命猶存す。
何に況(いわ)んや軽病をや。業に二あり。一には定業、二には不定業。定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。何に況や不定業をや」
と、たとえ重病でも善い医師により直ちに処置すれば命を取り留めることができるように、定業さえも信行によって消滅することができる、不定業は言うに及ばず消滅することができると教えられています。
そして転重軽受も教えられています。
御書『太田入道殿御返事』 (P913)
「宿縁の催す所、又今生に慈悲の薫ずる所、存の外に貧道に値遇して改悔を発起する
故に、未来の苦を償(つぐな)ひ現在に軽瘡出現せるか」
と、日蓮大聖人に知遇を得た宿縁や正法に遭った宿縁や仏の慈悲により、未来に受けるべき地獄に堕ちるほどの重苦を今生に軽い病として受けることができると仰せです。
このように仏道修行の功徳によって重業の報いを今生に軽く受けることを転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)といい、「重きを転じて軽く受く」と読みます。
そしてさらに定業を転ずる現証について『可延定業御書』に挙げられているのです。