光日上人御返事

十二時(とき)

一時(とき)は現在の2時間で、十二時で一昼夜、一日中のこと。十二時を二六時ともいう。

二万由旬(ゆじゅん)

由旬とは里数をあらわす梵語(Yojana/ヨージャナ)の音写。

1由旬は所説あるが、一般には大唐西域記の説を用いる。

帝王の一日の行軍里程で30里(一説には1里は約600m)とも40里ともいわれる。

したがって2万由旬はおよそ60万里~80万里。

倶舎論の説によれば閻浮提の地下2万由旬のところに、縦、横、深さ、おのおの2万由旬の無間地獄があるといわれる。

ちなみに2万由旬(60万里~80万里)は、帝王の行軍で2万日になるので現代太陽暦の計算で約54.79年になる。

ちなみに現代の日本では1里は36町。1町は約109.09m。よって1里は36町✕約109.09m=約3927.24m=約3.92㎞になる。

四大

四大種の略称。地・水・火・風をいう。四大は、ともに空を依処としているのであり、五大と同意。宇宙の根本を構成する要素であり、人間の五体もこの四大からなる。地は骨・肉・皮膚、水は血液、風は呼吸をさすといわれる。

焙烙(ほうろく)

平たい素焼の鍋。ゴマ・豆類・麦米等を痛めるのに使用した。

いまいまし

忌み嫌うべきこと。しゃくにさわる。腹立たしい。

修羅道

阿修羅道の略。古くは帝釈天とつねに戦闘を繰り返した阿修羅(Asura)の住む世界をいったが、仏教では六道の一つ。修羅界に生きる道のこと。現世に瞋・慢・疑の三因を積んだ者が生ずる世界で、戦闘・戦乱の場所やその世界をいう。大智度論には、阿修羅道は三善道(修羅・人・天)を上中下に分けると下であると説いている。

結構

結構には物をつくり出すこと、計画すること、準備をととのえること、といった様々な意味があるが、ここでは懇ろにすること、手厚くする庇護することの意味。

伍子胥(ごししょ)が諫め(いさめ)

伍子胥(ごししょ)(ー前485年)、中国・春秋時代の呉王に仕えた重臣。父の伍奢(ごしゃ)は楚のへ平王に仕えたが、平王2年(BC527)の内紛の為に兄の伍尚(ごしょう)とともに殺された。そのため、伍子胥(ごししょ)は楚を去り敵国の呉王闔閭(こうりょ)に仕えた。闔閭(こうりょ)9年(BC506)孫武と共に楚を破り、平王の墓をあばいて、その屍に鞭をうって復讐をした。その後、闔閭(こうりょ)の子である夫差に仕えた。

呉王は中国・春秋時代の諸侯の一人。呉王朝最後の第25代夫差(ふさ)(ー前473年)の頃の出来事。第24代の呉王の闔閭(こうりょ)は越(えつ)王の勾践(こうせん)に敗れ、その復讐を子の夫差(ふさ)に託して死ぬ。そこで夫差は、2年後にふたたび勾践(こうせん)と戦い勾践を破る。勾践は夫差に和解を申し入れるが、内心はこれに取り入って再起をうかがう腹であった。そのとき家臣の伍子胥(ごししょ)は、越(えつ)が、後日軍備を整えて攻めて来るのを見通し、勾践の首をはねることを夫差に進言したが、それを聞き入れず、勾践を許した。そのうち宰相・伯嚭(はくひ)の讒言を聞き伍子胥(ごししょ)を自害させた。そのとき伍子胥(ごししょ)は、「わが眼を呉の東門にかけておけ、敵国越が呉を亡ぼすさまを見よう」といって自害したという。その後、予言通り呉は越に亡ぼされた。

参照 種々御振舞御書 「呉王は伍子胥(ごししょ)がいさめを用いず」

比干(ひかん)が言(ことば)

比干は殷の紂王の忠臣。

殷(いん)の紂王(ちゅうおう)は中国・殷(いん)代最後の王。名は辛(しん)。商邑(しょうゆう)(河南省安陽県小屯)で即位。智力・能力・腕力とも勝れたが、妲己(だっき)を溺愛し淫楽にふけり、盛んに宮苑桜台(きゅうえんろうだい)を建築し、珍獣を集め、妲己のいうわままに酒を池とし肉を木にかけて林とし長夜の宴を行った。側近が諫める(いさめる)のをとりあわず挙げ句は刑罰を重くし、炮烙(ほうらく)の刑を新設した。またいうことをきかない臣下を殺して塩漬け乾かし肉にし、敵意をもつ者は捕え、逆に讒言(ざんげん)の上手な家臣を用いるなどの悪行の結果、民心は離れていった。このような紂王の乱行に、比干は再三諫言したが、聞き入れられず、比干は「人臣たるものは死を賭して(として)諫めなければならない」と面(おもて)をおかして紂王を諫めた。紂王は「聖人の心臓には七つの穴があるそうだな」といって比干を殺し、その心臓を割いたという。こうした悪行の連続で、すでに民心は紂王のもとにはなく、周の武王が僅か(わずか)800の諸侯を率いて攻め、紂王70万の軍を打ち破った。箕子(きし)・微子(びし)と共に殷の三仁(さんじん)の一人とされる。

参照 種々御振舞御書 「殷の紂王・比干」