五重の相対とは
一切の宗教や思想を五段階に比較相対しながら、最も優れた教えである日蓮大聖人の仏法を選び取るための
教相判釈(きょうそうはんじゃく)=教判です。
日蓮大聖人が『開目抄』に示され、さらに日寛上人が内外・大小・権実・本迹・種脱の五つに整足されました。
内=内道 仏教
外=外道 仏教以外
中国の儒教
インドの三仙・六師
◇儒教の内容◇
儒教は五常(仁・義・礼・智・信)をもとに、礼節や忠孝などの人倫道徳が示されました。
この五常を拡充することにより、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)という人の重んずべき人間関係を説きました。
◇開目抄P524◇
この儒教思想はつまるところ
周公旦(しゅうこうたん)、孔子の説いた 『有の玄(うのげん)』
老子の説いた『無の玄』
荘子の説いた『亦有亦無の玄』
◇有の玄(うのげん)◇
周公旦(しゅうこうたん)、孔子の説いた 『有の玄(うのげん)』とは
一切の存在は実有で、天地の根源(玄)に太極(たいきょく)・元気(げんき)といわれるものがあり、そこから陰・陽が次第に分かれて森羅万象を生じているという考え方です。
◇無の玄(むのげん)◇
天地の根源は虚無で、無為(むい)自然のあり方に本当の道があるという考え方です。
万物の姿は自然をもととし、そのなかに有の辺と無の辺があるという考え方です。
大聖人はこれらについて、万物のあり方や現世に生きる人の道を巧みに説いてはいますが、三世・因果の正しい道理を知らないために、結局は正しい道を説いてはいないと指摘されています。
又は儒教は現在の一世にのみの因果を立てますが、過去と現在と未来という永い生命からの因果を捉えません。
◇インド外道(仏法用語で仏教=内道であり仏教以外を外道という)の内容◇
儒教が倫理偏重(偏重=物事のある面だけを重んじること)であるのに対し、釈尊以前より存在したバラモン教などのインド外道は、一応の因果も説き、内容も非常に複雑です。
様々な因果論を立てて、あるいは否定をし、因縁果の生命の原理ではなく我見に基づく偏った理論であるために、正しい生命の解脱を得ることができません。
◇因中有果(いんちゅううか)◇
代表的なものに
迦毘羅外道(かびらげどう)は因中有果(いんちゅううか)といって「結果は原因に含まれる」という説を立てました。
漚楼僧佉外道(うるそうぎゃげどう)は因中無果(いんちゅうむか)といって「原因と結果は別のものである」という説をたてました。
◇因中亦有果模亦無果(いんちゅうやくうかやくむか)◇
勒娑婆外道(ろくしゃばげどう)は因中亦有果亦無果(いんちゅうやくうかやくむか)といって「因果はないともいえるしあるともいえる」という説をたてました。
インド外道のほかに六師外道といわれる六人の外道の論師がいました。
そのなかには
無道徳を説く者
あらゆるものを疑う懐疑論者
苦行による解脱を説く者 など様々でした。
この思想は見惑(けんなく)(見惑=思想的な誤り)といわれる煩悩がもとになっています。
見惑とは
物事の理法に迷う妄見のことです。
妄見とは理屈に合わない、まちがった見解。迷いから生じた、虚妄の考えという意味です。
見道により四諦の理を見る時、滅ぼされる煩悩や惑いをいいます。
俱舎論では八十八使の見惑を立てています。
根本となる煩悩は五利五鈍の十使であるが、これを三界にそれぞれの四諦(苦集滅道)の所断に
あてると、
欲界 32使
色界 28使
無色界 28使
合わせて88使となります。
このように、見惑とは五利使を中心とした様々な妄見のことをいいます。
見思惑とは
見惑と思惑のことです。
惑とは煩悩のことです。
迷妄の心、対境に迷って事理を顛倒(てんどう)することをいいます。
物事の道理に迷う煩悩、誤った見解のことを意味します。
見惑とは邪(よこしま)に法理を分別して起こす我見・辺見等の妄見をいいます。
意識が法境に縁して起こる煩悩のことです。
思惑とは世間の事物・事象を思慮して起こす貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)等の妄情をいい、
意識を除く五識が五境に縁して起こる煩悩とします。
見惑の代表的なものとして
- 身見(しんけん) 我見=我に本性があるとする
我所見=自分の周りのものはすべて自分の所有だと考えること
- 辺見(へんけん) 断見=我と我の所有は死後に断絶すると考えること
常見=死後も常住不滅だと考えること
- 邪見(じゃけん)=因果などないと考えること
- 見取見(けんじゅけん)=劣ったものを勝れていると考えること
⑤戒禁取見(かいごんじゅけん)=間違った戒律や道を悟りの道だと考えること
倶舎論ではこの五つを根本として88の見惑があるとします。
☆まとめ☆
その他にも絶対神に死後の平安を祈る教えやその他にも「身見」や「邪見」がもととなった教えがたくさんあります。
この外道の教えは一定の人倫道徳や人の進むべき道を説くという面では仏法に入る初門とみることができます。
しかし三世の生命と因果の道理を正しく説かないので、人々を救うことはできません。
仏教は三世に亘る(わたる)因果を説きます。
三世・因果の正しい道理の観点から自分の罪障消滅をさせて頂く仏道です。
☆補足 略偈☆
人間は生きている間だけの存在で自分の生前の過去も死後の未来もないと言うのはこの見解を仏教では断見と言います。
人間や生物は個や我という不変が存在し、死後の霊魂や死んでもその人の魂が存在するという見解を常見と言います。
これは辺見の一部で因果の法則を否定した見解で、部分的・偏向的(考え方がかたよっていること)な因果を説くものです。
宇宙法界の事物は必ず因果の法則によって成立すると考えます。
だから物は根本的存在で本源的存在と見たり、生物や人間は創造神が造ったとも考えません。
因果の道理を無視した絶対的存在を主張することはありません。
仏教こそ宇宙法界の全体観の視点から、過去・現在・未来の三世を明らかにし、三世の生命に立脚し自分の人生をどのように生きていくかを示す教えなのです。