信・行・学

宗祖日蓮大聖人様は『諸法実相抄』に、

「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候」

と御教示されています。

では、信行学とは具体的にはどういう事でしょうか?

信について

日蓮大聖人様は『御義口伝』に

「一念三千も信の一時より起こり、三世諸仏の成道も信の一時より起こるなり。此の(この)信の字は元品の無明(元品の無明)を切る所の利剣(りけん)なり。其の故は、信は無疑曰信(むぎわっしん)とて疑惑を断破(だんぱ)する利剣なり」と、「信」は修行の過程において最後に残る、根源の迷いである元品の無明を切ることのできる剣であると御教示です。

『新池御書』には、

「有解無信とて法門をば解りて(さとりて)信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解(うしんむげ)とて解(げ)はなくとも信心あるものは成仏すべし」と、法門を理解しても信心がなければ成仏ができず、反対に法門の理解はできなくても信心がある者は成仏できると御教示です。

不信、すなわち信じないことについて

『御義口伝』に

「信の一時を以て妙覚(みょうがく)の種子と定めたり。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚(むじょうほうじゅ)不求自得の大宝聚(だいほうじゅ)を得るなり。信は智慧の種なり、不信は堕獄の因なり」と、不信は地獄へ堕ちる因であると御教示です。

仏道修行の上では、信(大御本尊に対する信心)を即身成仏の根本とし、そしてその信から起こる行(具体的な実践の修行)と学(仏法の教えを学ぶ教学)が必要であると示されています。

行について

行とは、修行を意味します。

行には自行(じぎょう)と化他行(けたぎょう)があります。

信によって即身成仏ができると説かれますが、ただ心の中で信じるだけでは信心をしている事にはならないのです。

身口意(しんくい)と言って身体の行いと口と意(こころ)が一致していることが重要なのです。

例えば、人に感謝の意を表すとき、実際に「ありがとう」と言葉に出し、本当に心から感謝していれば自然と表情にも表れます。

人に謝罪の意を表すとき、実際に「ごめんなさい」と言葉に出し、本当に心から誤っていれば自然と表情や態度にも表れます。

これと同様に、御本尊を心から信じて身と口にも表していくことが肝心です。

信を形に表したものが行です。

そして行には自行と化他行があるという事です。

自行は勤行です。

勤行とは「勤めて(つとめて)善法(ぜんぽう)を行う」という意味です。

善法(ぜんぽう)とは「善い事がら」という意味です。

正直捨方便の心で御本尊に向かい合掌礼拝(がっしょうらいはい)する事です。

化他行とは未だ正法を知らない人、正法に縁がない人等に対して、末法には末法で広まる正法があるという真実を説き示す行為です。

この行はとても大切で

第26世日寛上人は『文底秘沈抄』に

「仮令(たとい)信心有りと雖(いえど)も、若(も)し修行無くんば、未だ(いまだ)可(か)ならざるなり。故に、起信(きしん)の義起(ぎき)に云わく『信有って行無きは、即ち信堅(かた)からず。行を去るの信は、縁(えん)に遇(あ)っては便(すなわ)ち退(たい)す』云云。仮令(たとい)修行有りと謂(いえど)も若し信心無くんば不可なり」

と仰せられています。

教学が深まることと信行実践が相まって、悪縁に遭っても紛動されることがなくなっていきます。

信と行はどちらが欠けてもならないのであり、信がないただ修行をしているだけは当然不可であり、仮に信があっても修行がなければ堅固(けんご)な信にならず、やがて、何らかの縁に触れて退転してしまうだろうと示されているのです。

学について

日蓮大聖人様の教法を学ぶことを教学といいます。

仏法の教義や道理を学ぶことにより、我見や疑惑のない正しい信心を培い自行と化他行に必要な知識などを身につける事ができます。

例えば、なぜ勤行をするのか、なぜ合掌するのか、お数珠の意義は?三障四魔とは?など、私達は修行をする上で知らない事の方が多いので、仏法の道理や意味や法門を学ぶことにより、妄信ではなく仏法という道理の上から信を深め行を深めることができます。

日蓮大聖人様は

「有解無信とて、法門をば解(さと)りて信心なき者は、更に成仏すべからず」

「総(そう)じて予が弟子等は、我が如く正理(しょうり)を修行し給へ。 

智者(ちしゃ)・学匠(がくしょう)の身と為(な)りても、地獄に堕ちて何の詮(せん)か有るべき。所詮(しょせん)、時々念々(じじねんねん)に南無妙法蓮華経と唱ふべし」

と御教示されています。

信がなく行がなかったら、学だけでは即身成仏ができません。

しかしながら『日女御前御返事』に

「弘(ぐ)の一に云はく『円信と言ふは、理に依って信を起こす。信を行の本(もと)と為(な)す』云々」とあります。

私達は仏法の道理を学ぶことにより、妄信ではなく道理の上から見て信を培うことができ、その信からまた堅固な行が起き、そしてさらに信がより一層深まり、この信行学を基本にして修行をすることにより成仏ができるのです。

そしてこの学で大切なことは、仏法の知識を我見によらず学ぶことです。

御法主上人猊下の御指南を拝して学び、指導教師より学ぶ事です。

日蓮大聖人様は『聖愚問答抄(しょうぐもんどうしょう)』に

「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。

真実なり甚深なり、是を信受すべし」

と御教示なされています。

『当体義抄(とうたいぎしょう)』には、

「正直に方便を捨て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く)の三道、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」と御教示されています。

『一生成仏抄』には

「深く信心を発(お)こして、日夜朝暮(にちやちょうぼ)に又懈(おこた)らず磨くべし。何用(いかよう)にしてか磨くべき、

只(ただ)南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是を磨くとは云ふなり」と御教示です。

一生成仏を目指して一信、二行、三学をしっかり修行したいと思っています。